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宇喜多の捨て嫁

◆英雄か梟雄か

このブログでも岡山を代表する武将である、宇喜多直家について幾度か触れているが、その宇喜多直家を主役にした珍しい小説があるので、ぜひ知っていただきたい。

その名も

「宇喜多の捨て嫁」

である。捨て嫁の意味はぜひ読んで欲しい。結構、冒頭で出てくる。


宇喜多直家が小説やドラマの主人公になることは、ほとんどない。
たぶん、脇役で出ることはあっても、主役を張ることはこれからもないだろう。 (深夜ならありうる??)

なぜかというと、戦国大名としてのし上がっていく彼の手法が、あまりにも生々しく、リアリスティックからだ。
戦国大名になるべくして彼が撮った手法は、ライバルの「暗殺」である。
それも、狙撃、ハニートラップ、毒殺、奇襲などなど様々なやり口をとっている上に、その回数が多いことから、ダーティなイメージを持たれているし、正々堂々とかすがすがしさが求められる日曜八時の枠には向いていないであろう。(言い過ぎw)


しかし、今の価値観で戦国時代の彼らのやりようを評価することは、戦国時代や歴史を理解する上で危険である。


なぜか。


それは、命の価値がいまと比較にならないくらいに低いからだ。
何かあれば、疫病、飢餓、病気、そして戦争で死ぬ。
自分の力の及ばない「何か」に命を奪われる確率が非常に高い。


それがリアルな戦国時代なのだ。


例えば、


英雄として誰しもが知っている織田信長や、わたしが敬愛する武田信玄であっても、その生涯において残虐な行為とは無縁ではいられなかった。
しかも彼らの場合は、無関係な民衆を数千、あるいは万単位で虐殺しているのである。彼らの功績や英雄譚は巨大であるが、その陰で名もなき人々が無残に殺されていったということも、知っておかなければならないだろう。他方、もし自分の村や町を治めるのが無能な領主であれば近隣の大名から蹂躙され、殺されるか奴隷として売り飛ばされるという悲惨な目にあう。


事実、数百年たった今でも武田信玄が侵攻し、略奪や残虐行為を行った佐久地域では彼を恨む声も大きいと聞く。


一方、


宇喜多直家の手法を弁護するわけではないが、彼のやり方は

「敵のトップだけを狙う」

という方法である。小説の中の宇喜多直家を貫いている思想は

「戦争によって得られる勝利は民衆の犠牲なくして得られない」

「戦争によって得る勝利は下策。兵を損耗せずに得る勝利こそ上策」


というものであり、そこで彼は民衆を傷つけないために敵のトップを仕物(暗殺)するという方法を選ぶ(主君、浦上宗景に無理やり選ばされたりもする)のである。


確かに、戦国時代の雑兵たちは近隣の農村から徴募してきた者たちであるから、戦闘を行う以上必ず民に犠牲は出るのは致し方ないところである。
まあ、彼らも出稼ぎに来ているから100%無理やりに徴兵したという訳ではないけれども。


敵の組織や指揮系統、意思決定を阻害する最も効果的、効率的な方法として選んだのが「暗殺」だったというわけだ。
敵にしたくはないなあ・・・。(ちなみに自分の娘の嫁ぎ先を滅ぼしたりしているので味方でも危険)



◆小説の中身

この小説は、短編がまとまって構成されている。
それぞれの短編は直家自身や、娘、浦上宗景や家臣たちの視点で描かれており、場面が重なるところもあるので、同じシーンを異なる人物の視点で体感することが可能だ。

ちなみに

わたしが、この小説で一番「おおっ!!」と思ったのは直家の死因と言われている


尻はす


の描写である。

尻はすってなんぞや??(。´・ω・)?
と思っていたところであり、尻に出来る悪性腫瘍かしらと推測していたのだが、この小説では

「古傷からとめどなく血膿が溢れる奇病」

とされており、直家の体を蝕む病の禍々しさが一段と強調されており、なるほどと思った。尻はすはこれにチガイナイ。


また、直家死去にあたっては、備前軍記などでも描写があるが、川に流された「尻はす」から噴出した血膿が付いた衣服を川下の乞食たちが拾うというところで、山姥が登場するのだが、これがまた重要な意味を持っているのである。

読んでいて

そう来る!?

となった。この感覚は久々だった。
ダンブラウン(ダ・ヴィンチコードの作者)のロスト・シンボル以来だわ。



また、直家よりもさらにマイナーな主君、浦上宗景の描写もあって面白い。君主とは孤独なものなのですなあ。



ともかく、戦国時代や戦国武将、はたまたリアリストやマキャベリストなあなたにはぜひご一読をおススメする。























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