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三大謀将 宇喜多直家 後編

◆宇喜多直家、「織田と毛利」二大国の狭間で




軍師官兵衛の陣内孝則演じる宇喜多直家、最高じゃああああ

宇喜多直家、激動の前半生はコチラから


第二次世界大戦前夜、ポーランドは二つの大国に挟まれていた。
東はソビエト、西はナチスドイツである。
 二つの大国に挟まれたポーランドは、外交に苦慮し、結局は秘密条約を結んだ両大国から侵略され、軍人、住民を問わず多数が犠牲になった。

二大国の思惑に翻弄されたのである。

古来から、二大国に挟まれた小国の悲哀、そして軍事衝突に巻き込まれた市民の悲惨な話はたくさんある。



戦国時代の中国地方も東は織田、西は毛利と二つの大国に挟まれ、それぞれの領主は、そのいずれに付くか決断せねばならなかった。


しかも備前には福岡の市や備前刀の一大生産地、長船もあったのである。
ちなみに、あの黒田官兵衛のひいじいちゃんの墓とじいちゃんの供養塔は長船にある。
そして後年、この福岡の繁栄っぷりにあやかって黒田官兵衛は博多の地に新たな名前を付けた。

それがいまの大都市福岡である。
いやーさすがは黒田如水。

先見の明がありますなあ。


つまりこの備前というエリアは戦国時代において、巨大な市場と高い軍事的技術力がある、諸大名垂涎の地だったと言えよう。






・・・ってあれ?
 



東はアメリカ、西は中国の二大国に挟まれた経済&技術大国がアジアになかったっけ・・・?

この宇喜多氏のかじ取りは、その国にとっても両大国に翻弄されないために、何か役に立つかもしれませんな。


1939年のヨーロッパ 青はナチスドイツ、緑はソビエト陣営
画像はWikipediaより

 1554年、毛利と同盟

ちょっとこの辺は、直家の主君、浦上宗景の話。

1564年浦上宗景は毛利と同盟する。これは、尼子氏と同盟を結んだ浦上宗景の兄、政宗に対抗するためであった。

これまたよくある話なのだけれど、政宗、宗景兄弟はお家の主導権を争い、そこに大国が介入したのである。
小国の騒動に大国が首を突っ込むのも古今東西よく起きているので、またご紹介できればと思う。


山陰地方の雄、尼子氏は政宗に、そして毛利は宗景と同盟した。

 
宗景は三村氏ら備中衆及び毛利氏の助力もあって、1560年には政宗派を駆逐することに成功する。

が、共通の敵がいなくなった途端に三村氏との仲が険悪化し、そのため盟主であった毛利氏と断交し、三村氏と戦闘状態に入る。



前篇でも述べたように、直家が1566年には三村家親を暗殺に成功。



その後に三村氏と行われた明善寺合戦にも勝利することで、1567年には備前エリアから毛利氏らの勢力を駆逐することに成功している。

その後の、宗景の軍事行動は結構すごい。
毛利勢を児島から撃退したり、織田方と同盟していた赤松氏を攻め、龍野城を陥落させたりしている。

あの織田と毛利を一時的にせよ退けることに成功しているのだ。
浦上宗景、知名度はほとんど無い(失礼!)けれどかなり凄いことだと思う。


 1569年、織田方へ内通


この時、(宗景が龍野城を落とす前)に既に直家は織田方に内通しており、織田方優勢とみたのであろうか。

隙を見て宗景に反旗を翻している。

だが、このとき織田方は積極的な攻勢に出ず、(第一次信長包囲網の直前であり、深入りできなかったものと思われる)逆に主君の宗景が大活躍してしまうので、アテが外れてしまう。



その後、主君、宗景に謝罪し帰参が許される。



(m´・ω・`)m ゴメン…

とかいってもフツーは許されないだろう。宗景はそれだけ直家を頼りにしていたのかもね。


ホントよく許されたなあ・・・。(;´・ω・)

でも、信長も一度裏切ったやつを許したりしているし、有能な家臣というのは中々切り捨てることができないのかもしれない。


このとき、直家は40歳である。



その後、宗景は織田方に接近し、みごと備前、美作、播磨の支配権を認められるのであった。


スゲー!!!\(^^)/

 1574年、毛利方と内通


3国に支配権を認められた宗景であったが、東播磨はもともと勢力圏ではなかったため、もともとそこにいた小寺氏などの反感を買ってしまう。
ここで、直家は反感を持つ小寺氏に接近。


( *´艸`)ネエネエ


小寺氏の元に匿われていた既に死亡した宗景の兄(政宗)の孫、久松丸を擁立し、宗景打倒を図る。
しかも今回は、事前に周到に根回しをしており、備前や美作の有力国人たちも相次いで宗景から離反。

宗景に協力したのは、直家に父を暗殺された三村元親等であった。
しかし、ここでダメ押しとばかりに浦上氏に煮え湯を飲まされつづた毛利氏が宇喜多支援を決定。

浦上氏の中で、毛利に対抗していたのは直家も同じでは??
(-ω-;)
※こういうのを「敵の敵は味方」理論という。



毛利による三村攻め(備中松山城攻め:備中兵乱)等を経て、宗景勢力は決定的に減衰。以降、備前、備中、美作エリアに直家の支配権が確立する。


この離反が、直家の大きなターニングポイントであろう。
1回目の離反は大義名分も国人への事前の調略もなかったため、頼みの綱の織田が引き上げてしまえば、直家には何の後ろ盾もない。

今回の離反は前回の失敗を踏まえてのものであることは間違いない。
事前に、宗景の兄の孫という「正当な跡継ぎ」を担ぎ、宗景の家臣を動揺させる。家臣団を調略し、味方に引き入れるか傍観させる。大国、毛利との同盟を成功させる等、数々の策を用いているのだ。

失敗を振り返り、次に活かせる男、直家。

やっぱり、直家の知略、策謀の能力は相当に高い。
この辺の大国間の利害を見極め同盟国を次々と変える様子は、あの真田昌幸にも通じるではないか。



 1579年、織田と同盟

時は1579年。
武田信玄が死に、上杉謙信も逝った今、もはや織田軍は中国攻略に本腰を入れることができるようになっていた。


織田軍きっての名将。羽柴秀吉が、中国に侵攻する。


宇喜多直家もこれに対抗するも、1579年、毛利を手を切り、織田方と同盟する。以降、織田の同盟国として備前、美作を中心にかつての同盟相手である毛利方と争う。



そして・・・



1581年末、悪性腫瘍のため岡山城にて死去。
52歳のことであった。


本能寺の変が起きるのはこれより1年ちょっとあとの1582年。
もしこのときまでに宇喜多直家が存命であったら、どのような決断を下していたであろうか。


織田信長の死によって選択肢は二つあるように思う。

・吉川元春が主張  羽柴秀吉を追撃する
・小早川隆景が主張 秀吉を追撃しない

毛利内部では、秀吉を追撃しない方向で決定した。
おそらく、先見の明が立つ直家も、光秀の謀反は失敗すると見て追撃はしなかったのではないだろうか。



 光秀が起こした本能寺の変はかつて謀反をおこした自分のときと同じで義名分に欠けていたのだから。


 中国きっての知将


幼いころ、居城が攻められ、他国を放浪するしかなかった直家である。
乱世の梟雄のように言われるけれど、大国の狭間で苦慮した直家は、自分を含めてどう生き残るかを必死で考えたに違いない。


その最善策が暗殺だったり裏切りだったのだ。


後世からみれば、汚い手を使ったのかもしれないけれど、リアリスティックに問題を解決していき、領地や領民を守った手腕は凄いと思う
力だけではなく、謀略を持って二大国の間を戦った男の生涯に、より深く興味が湧いた。



 終わり

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