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◆アントニウスの致命的な3つの誤算
アントニウスはローマ世界を、はっきり言って敵に回したといってもいい状況に置かれていた。そのことに、アントニウス本人は気づいていなかったのだろうか。アントニウスはエジプトの将軍ではない。ローマ市民たちから成るローマ軍を率いる将軍なのだ。
彼の命令によって血を流すのはローマ市民である。
出典:Wikipedia (70年頃(アウグストゥス没後)の百人隊長の軍装の再現)
そのローマ市民の賛同なくして彼の地位は保たれようがないのに、権力を握ったことで、そのことを忘れてしまっていたのだろうか。
それとも、歴戦の軍団長であったアントニウスは、クレオパトラにのめり込むあまりに現状認識の力を欠いてしまったのだろうか。
アントニウスが犯した致命的な誤算は大きく3つあるように思う。
1 オクタヴィアを始めとするローマ人妻の離縁
ローマ人妻と離婚してエジプト人を新たに妻にする。これほど象徴的な行動もないだろう。どう考えても母国ローマよりもエジプトを重視するように思えてしまう。まして、オクタヴィアはオクタヴィアヌスの姉である。彼女と離婚することはオクタヴィアヌスとの決裂を意味する。
2 パルティア遠征など軍事上の失敗
軍事的才能は高いと思われていたアントニウスが遠征に失敗するなど、カリスマ性に傷がつくような事態が起きていた。
一方、軍事的才能が乏しいと見られていたオクタヴィアヌスはアグリッパ(軍事面での補佐役)の協力も得て反乱を鎮圧するなど成功を見せていた。
出典:Wikipedia アグリッパ像 (あのポンデュガールも彼が作った。ぜひ訪れてみたい!)
そして何より、アントニウスの失策の多くに関わっている
3 エジプト女王、クレオパトラとの密接すぎる関係
である。アントニウスは一般人ではない。ローマ世界を代表する権力者のひとりである。その行動には政治的な意味が常に付きまとう。
そういった点では脇が甘すぎたとしかいいようがない。
クレオパトラも同様だが、自分の行動が、どのように世間に取られるか、その結果何が起きるか、洞察する力が乏しかったのだろう。
そして、彼の失策は、ことごとくオクタヴィアヌスに利用される。
◆アクティウムの海戦とアントニウスの死
ローマ市民のアントニウスへの敵愾心をオクタヴィアヌスは利用したうえで開戦する。
オクタヴィアヌス 対 アントニウス・クレオパトラ連合
だが、もはや
ローマ 対 エジプト
にすり替わっていた。
アクティウムの海戦の詳しい内容は省略するが、結果としてアントニウス陣営は勝てる戦を放棄して敗北する。
アントニウスは自害し、クレオパトラはローマでの凱旋式で見世物にされた後、わざと監視の目を緩めた間に毒蛇によって自殺した。
これにより、アレクサンダー大王の時代から続くエジプトのギリシア人王朝は終焉を迎えたのである。
そして、オクタヴィアヌスは、戦時には解放されているヤヌス神殿の扉を閉じ、内戦が終結したことを示した。
◆オクタヴィアヌスはなぜ勝利を収められたか
オクタヴィアヌスは、カエサルの遺言によってローマ世界の第一人者に指名されたが、そのスタートはあまりにも唐突であり、そして多くの障害があった。にも関わらず、十四年の歳月を経て、最終的に彼は勝利した。
なぜ、彼は最終的に勝利を得ることが出来たのだろうか。
・・・といっても、彼は並みの十八歳ではなかった。
恐ろしく政治的なセンスの高い十八歳だったのだ。
加えて、カエサルが重視した「寛容」性も持ち合わせていた。
むしろ、「ゆとり」というべきだろうか。
・自分にとって不得手な部分は、得意な人間に任せる
・体調の悪い時は無理をしない
・都合の悪い時は焦らず、自分に有利な時を見計らってことを起こす
非常に複雑な人間性を持ち、目的を達成するためならば、あえて遠回りすることも辞さない彼のやり方は、興味が尽きないところである。
後にアウグストゥス、そして「国家の父」と呼ばれるようになった彼は満足げにこう言ったという。
「わたしは煉瓦のローマを引き継いで、大理石のローマを残した」
参考
塩野七生「ローマ人の物語 ユリウス・カエサルルビコン以降下」
スエトニウス著国原吉之助訳「ローマ皇帝伝上」
ワーナー「ROME」
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